物語の物語、形而上的な成長物語(評価: )
一見シュールな場面にも、何か哲学的な寓意を感じる事多々。それを語るとネタバレになるのが残念。物語をどう受けとめるか、もまた、物語を無限に豊かにするものなんだろう。
物語中での、この本の装丁や、文字の二色刷りという、物としての本それ自体への視覚的な自己言及によって、印刷物としての文字から、僕ら読み手の「こちら側」、現実界へと越境してくる言葉。しかし物語中で語られる「無」は、目で見る事が出来ず、まさに言葉で語る事しか出来ないもの。この、「見えぬもの・語る事しか出来ぬもの」と「語りえぬもの・見る事しか出来ぬもの」の交錯と葛藤と並行が、最初から最後まで手を変え品を変え現れる。
物語で徐々に大きな意味を持つ言葉「汝の 欲する ことを なせ」は、放任の言葉ではなく命ずる言葉、命ずる言葉という以上に、問いかけの言葉だという事に、読み手は気づいていく。「本当の意志」とは何か、全ての望みが時をおかず充たされるとしたら、僕らはその時、何を欲するのか。物語を作る才能が唯一の取り得であるバスチアンだが、この作品は、単に空想の素晴らしさを語っている訳ではない。むしろ、無限の自由を有しているかに見える空想も、結局は様々な要素の組み合わせにすぎない事、ただ放逸に、望むままに空想を展開する事は、無意味で空しい行為だという、冷厳な真実を突きつける。そして読み手は、意のままにはならないこの現実界に、新たな存在価値が与えられるのを感じるだろう。
冒頭に、古本屋の看板が左右逆転した絵、というか文字が印刷されていて、まるで僕ら読み手が本自体の内側から、バスチアンを迎え入れたように感じる。物語中の重要なシンボルである、互いの尾を咥え合う白と黒の蛇は、自らの尾を咥えた蛇ウロボロスと、陰陽のバランスを表す太極図を掛け合わせたような印象だ。反対物の一致と、自己への回帰。つまり循環的世界観がこの作品の哲学。
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